國學院大學久我山中学高等学校
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学びの泉・学びの杜 〜研究最前線 國學院の今~ 第5回

第5回 大道 晴香 准教授(神道文化学部)

國學院大學の学びをご紹介する「学びの泉 学びの杜」。今年度より、各学部の先生方の学びとの向き合い方にフォーカスします。第5回は、神道文化学部准教授の大道晴香先生です。大学の最初の授業で心惹かれた目には見えない神や霊魂の世界。「メディア」という観点から、私たちの中に潜む宗教性の可視化を試みる意図や意義を伺いました。

 

 人生を変えた授業との出会い

 ――研究者を志したきっかけからお話いただけますか。

大道 晴香 准教授(オオミチ・ハルカ) 1985年青森県生まれ。横浜国立大学教育人間科学部卒業、東北大学大学院研究科博士課程前期修了、國學院大學大学院文学研究科博士課程後期修了。博士(宗教学)。2020年國學院大學助教、2024年より准教授。専門は宗教学。宗教とメディア、民俗宗教と近現代社会との関係などについて研究。著書に『「イタコ」の誕生-マスメディアと宗教文化』(弘文堂 2017)。共編著に『怪異を歩く』(青弓社 2016)、『怪異と遊ぶ』(青弓社2022)。共著に『モノとメディアの人類学』(ナカニシヤ出版2021)、『〈怪異〉とミステリ』(青弓社2022)など。

 もともとは高校の世界史の教員を目指していました。大学も教員養成課程に進み、卒業後は地元の仙台で高校の先生になるという人生プランを立てていました。ところが、大学に入って間もなく、自分でも想定外だったのですが、霊魂をめぐる文化に興味をもつようになりました。
 理由の1つは、入学早々に受けた「日本の近代文学」という授業です。近代科学の一領域として、死後の世界や魂を扱う「心霊学」などと呼ばれる学問が、明治40年代あたりに欧米から入ってきました。それを夏目漱石、芥川龍之介ら、日本の文豪たちがいかに受け入れたのか。そういうことをその授業で学んだことがきっかけです。幽霊なども研究対象になるんだ、と、少し興味をもちました。
 また、私の出身地である青森県には民俗文化が根強く残っています。在野の巫女(死者の口寄せを行うイタコのような民間の宗教者)が数多くいて、死者や神の存在が身近に息づいていると感じていました。
 巫女というと、神社の緋袴を履いた女性を想像されると思いますが、在野の巫女は少し違います。身近な場所で悩み相談を受けてくれたり、おまじないや祈祷などをしてくれたりする、いわば村の相談役のような位置づけでした。
 例えば、赤ちゃんの夜泣きを「かんの虫」と言いますよね。かつては体の中の悪い「虫」が作用して、子どもが癇癪(かんしゃく)を起こしたり、泣いたりすると考えられていました。私の祖母は自分の子どもが小さかった頃、よく巫女さんのところに、この「虫」を封じてもらいに行ったと話していました。
「こんな夢見ちゃったんだけど、どういう意味だろう」「体調が悪いんだけど、どこの病院に行ったらいいかな」などといった具合に、暮らしの中で生じる様々な困りごとを相談できる、祖母世代の女性にとっては比較的身近な存在でしたので、私も生活の一部ととらえていました。
 その感覚が、世の中の「普通」ではなかったと気づいたのは、大学に入学してからです。書物から、青森県に見られる巫女の習俗が民俗学などの研究対象になると知り、自分の生活の一部が学問の対象になるのだと感銘を受けました。さらに、実は私の先祖も巫女だった事実が判明し、宗教学的な研究に惹かれていきました。

 ――バックボーンが影響を与えたのですね。

 ただし、自分が地域に根ざしたアイデンティティを元々すごく持っていたかというと、そうではないと思います。生まれ育った東北地方を出て関東の大学で学び、知らない外の世界に触れたことによって、改めて自分はこういう文化的な特性を持っていたんだな、と意識するようになりました。

 ――青森に「口寄せ」をする巫女さんは、今もいらっしゃるのですか。

 新しいイタコは、近年はほとんど誕生していないかと思います。1950 – 60年代には100名を超えるイタコがいましたが、現在は青森県内で4名ほどです。イタコはもともと視覚に障がいをもつ女性の生業として成り立ってきました。前近代における福祉制度という側面があったわけです。ですので、戦前の国家による宗教弾圧を経て、戦後、医療や福祉制度が拡充するのに伴い、次第に数が減っていったのは自然な流れだったように思います。

 ――青森には盲目の芸能者には三味線を弾き語りする瞽女(ゴゼ)さんもいましたよね。

 瞽女もイタコのような巫女も、かつては日本の中に広く見られる職業人で、それほど珍しい存在ではありませんでした。口寄せをする巫女は、今でこそ東北地方固有の文化のように見えますが、前近代には全国的に分布していたことが、文献などから分かっています。有名なところでは、弥次さん・喜多さんでおなじみの十返舎一九「東海道中膝栗毛」にも出てきます。口寄せ巫女が数多く住んでいるエリアは「巫女町」と呼ばれていて、有名だった大坂の天王寺や東京の亀戸天神の門前は「占いの館」的な雰囲気だったようです。

 

 

 気になった違和感が研究のきっかけに

 ――ご専門は「宗教学」ですか。

 そうです。学部時代から書物を読んだり、関連のあるテーマで卒論を書いたりしましたが、専門的に学び始めたのは大学院に入ってからです。「宗教学」はその名の通り、宗教とは何かを考えるような学問です。ものすごい幅が広く、キリスト教など、よく知られている宗教を研究する人もいれば、都市伝説やアニメの中の宗教、あるいは神話などをテーマに研究する人もいます。私は地域の生活に密着した、日本の民俗宗教を研究の対象にしています。
 例えば、道端のお地蔵様に軽く手を合わせたり、お盆の時期にお墓参りに行こうかな、と考えたりしますよね。日本では7割程度の方がお盆にお墓参りをするという統計があります。そうした私たちの生活を支えている精神性みたいなものを可視化したいと思い、民俗宗教に関心をもつようになりました。
 そうしたなかで、私が着目するのが「メディア」の役割です。地獄や天国を直接見たことはないですが、私たちは絵や書物を通じて、宗教的な領域を認識しています。宗教は、メディアがなければ成り立たない文化だと言えます。メディアは直接見ることのできない世界や、遠くの世界の出来事を可視化してくれます。ただし、メディアによって伝えられる内容は、物事の実態をそのまま映し出しているわけではありません。オカルト番組などでイタコが取り上げられたときに、私が地域の中で知り得た姿と、テレビなどを通じて伝えられている姿にずれがあり、そこに違和感をもったのが、「メディアと宗教」に着目したきっかけです。
 私たちは情報化社会の中で生きていますので、メディアを通じて世界を知ることになります。伝えられたものが、どのくらい現実を反映しているのか。あるいは反映していないのか。そこは非常に重要な問題です。ともすると、私たちは現実と違う、ずれたイメージのものを受容し、それを信じて働きかけたときに、そのイメージがあたかも現実のものになるというか。現実のものを変えてしまうという現象が起こり得るので、メディアは宗教のイメージを形成する際に、どのような部分を強調したり誇張したりするのか。あるいはどういう部分を抑えたり省いたりするのか。そこにも高い関心を持ちました。

 ――そうした日常の気づきを、研究テーマとしてどのように掘り下げていますか。

 約600名の学生にアンケート調査を行った際、イタコに直接会ったことがある人はわずか数名だったにもかかわらず、7割強の人がイタコを知っていると答えました。何を通して知ったかというと、そう「メディア」です。特に漫画やアニメーションなど、 エンターテインメントコンテンツを通じて、そういう宗教者を知ったという学生が大半で、今の人たちが宗教文化に接する1番の窓口はメディアであることを実感しました。
 ただし、メディアが何かを報道する場合、すべてを取り上げることはできませんので、必然的に対象の一部分を切り取って報じることになります。そのためには発信する目的やメッセージ性(伝えたいこと)を考えなければいけません。そこには必ず人間の意図や創造性が入ってきます。
 私の研究は、そういう表象を分析しながら、どこを切り取って、どこを隠して、どういう意図をもって情報が作られているのかを、詳しく分析し考察するものです。メディアによって作られたイメージと実態とのずれは、新たな文化を生み出す原動力になる反面、葛藤やトラブルの要因にもなり得ます。良いことばかりではなく、悪いことも起きるので、そういうことも含めて、目を向けていきたいと思っています。
 イタコの口寄せも、今は地域の方だけでなく、メディア経由で関心をもった地域外の方が利用しようと足を運んでいます。そうした「脱地域化」の中で、話し方を標準語に寄せるなど、地域外の方にも機能するような形で、口寄せの語りも地域色が薄くなったり、伝統的な形式に囚われなくなるなど、地域外の方との間でも機能するような形で変化が生じています。現在進行形で機能している「生きた」文化だからこそ、こうした変化が生じてくるわけですね。
 また、アニメーション作品(以下アニメ)の中に描かれることが多い、神社やお祭りもメディアの影響と無縁ではありません。例えば、湯涌温泉(石川県金沢市)がモデルとなった「花咲くいろは」というアニメには、「ぼんぼり祭り」という架空のお祭りが、幻想的に美しく描かれています。
 そのお祭りは、もとはアニメ内だけに登場する想像上の行事で、実在の神事ではありませんでした。ところが、アニメを見た多くの人が現地を訪れるようになり、そうした「聖地巡礼」の動きを受けて、地元の観光協会が「ぼんぼり祭り」を実際のお祭りとして執り行うようになりました。ただの観光行事ではなく、湯涌温泉の神社に神主を招いて、「神迎え/神送り」の儀式や「お焚き上げ」の儀式を行うなど、地域に根ざした神事としてのお祭りを新しく創出しています。
 これなどはまさにメディアによって作られたイメージ=「虚構の現実」が新たな現実を生み出した一例と言えるでしょう。メディアや観光ツーリズムが、新しい宗教文化を動かす原動力になる。そういう事例などもあるので、非常に面白いなと思って見ています。
 人間や社会のあり方が変われば、儀礼や文化の形も当然変わります。伝統の変化をネガティブにとらえる向きもありますが、私はむしろ変わる部分を、文化の新しい一側面としてポジティブに捉えていく姿勢で研究に取り組んでいます。

 

 

 どんな題材も研究になる

 ――先生のゼミの学生さんは、どのような研究に取り組む傾向がありますか。

 今は「近現代社会の中の神霊」というテーマで、ゼミの募集を行っています。ここでいう神霊は、神様だけでなく、死者の霊魂も含みます。妖怪やお化けなども対象になります。つまり、うちのゼミは「なんでもできる」が売りで、卒論のテーマも多岐に渡ります。
 入口では、身近なところで現代的なテーマを設定する学生が多いのですが、研究を進めるうちに、現代の日本社会に潜む霊魂観や人々の希求といった、より大きな問題が見えてくるようになります。そうしたところが研究の醍醐味の1つかと思います。

 ――具体例を教えてください。

 ジブリ作品や新海誠作品は「宗教的なもの」を感じさせるようで、研究したいという学生が多いですね。最近は「ゲームの研究をしたい」という学生も多いです。「原神」や「アサシンクリード」で論文を書いた学生がいます。自分でプレイしながら場面やセリフをメモするなど、記録を取るところから始めるので大変なのですが、皆さん一生懸命にデータを収集して内容の濃い論文を仕上げています。
 宗教文化はエンタメコンテンツを制作する格好の素材となっており、今やこうしたコンテンツを通じて神話や霊魂観を認識・継承する人が少なくないと思われます。「原神」や「アサシンクリード」のような国際的に展開するコンテンツには、特定の地域に根ざした宗教文化が脱地域化し、他の文化と組み合わされる中で、新たな意味や機能が生じている様子を見て取ることができます。
 テレビアニメ版の「ゲゲゲの鬼太郎」を研究した学生もいました。6度にわたってテレビアニメ化されているこの作品には、制作時の社会状況が色濃く投影されています。その学生が扱ったのは2018年から放送された最新シリーズでした。SNSを中心としたインターネット時代の闇の部分が鮮明に反映されていて、分析していくと現代社会のあり様が鮮明に浮き彫りになりました。
 作中のSNSが出てくる場面をすべて書き出すなど、緻密な作業調査と分析によって、現代社会の一面に深く切り込めたように思います。宗教学としてはもちろん、現代社会の探究としても、非常に価値のある研究になりました。

 ――目のつけどころがよかったのでしょうか。

 学生はよく、「こんなものでも研究テーマになりますか」と、自信なさげに相談してきますが、私はどんなテーマであっても「大丈夫」と言っています。研究には決められた「型」があります。堅苦しいようですが、逆に言うと、その「型」さえ守れば何でも研究になります。
 まずは問いを立てて、そこから自分が知りたいことを明確化していきます。私のゼミ生で言えば、「宗教観」と言っても、霊魂観や死生観などいろいろな宗教観がありますので、自分が知りたいことは一体何か、死後の霊魂の行方なのか、はたまた生まれ変わりの思想なのか。また、一体いつの時代の誰のことを知りたいのか、「現代日本人の」生まれ変わり観といった場合、「現代」とは一体いつなのか。戦後なのか、高度経済成長後なのか、2000年代以降なのか。ここで言う「日本人」とは誰を指すのか。日本も広いですので、どのエリアのことを指していて、1億2000万人のうちのどういった年齢層の人々を想定しているのか。このように自分との対話を重ねていって、最終的に何を知りたいのかを具体化していきます。
 「研究」や「論文」には必ずオリジナリティ(独自性)が求められます。これがレポートや調べ学習と「研究」との大きな違いです。研究には新規性が必要です。新たな発見の積み重ねのうえに、研究はこれまで進展してきました。どんな小さな発見でも構いません。すべてが研究されつくされているということは、まずありません。今までやられてこなかった事例や時代、ものの見方、方法など必ず「穴」がありますので、1つでもいいから自分のオリジナリティを見つけてほしいなと思います。
 そうしたところを意識しながら、たくさんの本を読んだり、調査をしたりしていくうちに、その学生ならではの研究論文が出来上がります。これまで学生が持ってきたテーマで研究にならなかったものはありません。研究者として、可能性のタネを育てるお手伝いができればいいなと思って取り組んでいます。

 

 

 「見えていない世界」へのアンテナの感度を高めよう

 ――宗教文化を通じて、様々なことが学べるのですね。

 國學院大學は教育の目的の基礎に神道精神を置いています。そのため、全学部の共通科目として「神道と文化」という授業を必修で設けています(神道を専門的に学ぶ神道文化学部は除く)。もちろん「神道にあまり興味がない」「難しくてわからない」と言う学生もいますが、授業を受けているうちに、毎年、一定数の学生が「意外と面白かった」「興味をもった」などと言ってくれます。
 例えば、観光まちづくり学部の学生が、「お祭りを観光資源にしたいと考えていたけれど、まちづくりや観光をプロデュースする際には、この授業で学んだ個々の神社の特性や人とのつながりを考えないとうまくいかないと思った」というような感想を書いて、提出してくれることがあります。

 ――そうした気づきは、その後の学びに良い影響を与えますね。

 私は大学1年生の最初の授業で、その後の人生が大きく変わりました。大学の授業の面白いところはそういう出会いがあるところだと思います。「日本の近代文学」が、いい意味で私の想像を大きく裏切る内容だったように、大学の先生方はいろいろなことを研究されていて、自分の知識の幅を大きく超える話をしてくださいます。本学部には、神道文化や宗教文化を専門にしている先生方が集まっており、古代から現代にいたるまで、国内外の様々な事象を対象として研究を行っています。自分の知らない世界に触れる、それが大学の授業の醍醐味だと思います。私のように人生が変わる可能性もありますので、大学に入ったら幅広く授業を受けてみるといいと思います。
 国内で宗教について学べる大学はいくつかありますが、日本に特徴的な神道の文化を基盤としながら、多様性に富む宗教文化を様々な視点から広く学べるところが、本学部の特色ではないかと思います。

 ――最後に、中高生へのアドバイスをお願いします。

  幼い子どもは遠慮なく「なぜ」「なぜ」と問いかけますよね。それが年を経ていくごとに減っていくのは、だんだんと固定観念、いわば「常識」というものができあがってきて、それをもって世界を見るようになるからだと言えます。ただし、その「常識」が他人と同じとは限りませんし、その「常識」からは零れ落ちている、見えていない世界が実は身近なところにあるかもしれません。中高生の皆さんにはぜひ、自身の「常識」を含めて「なぜ」という問いかけを連発していただき、潜在的な価値観のような「見えていない世界」へのアンテナの感度を高めていただけたらと思います。

【取材日/令和6年9月24日】